教会の暦から

復活節

教会暦2017

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4月14日の受難日,4月16日のイースターを経て,暦は「復活節」に入っています。主イエスが死者から復活し,その弟子たちと共に過ごされて,「死は終わりではない」ことを示してくださったときを記念する期間です。

死者からの復活は,キリスト教を信じようとするときの一つのハードルになるかもしれません。しかし,生前のイエスを知っている弟子たちが「確かにイエス先生は生きておられる」という多くの体験をしたことは,確かなのだと思います。そして弟子たちは,その体験を通じて,自分たちにも復活の希望が与えられたと感じたのです。イエスの復活を信じることができず,イエスさまの傷に自分の指を入れてみなければ信じない,と言っていた弟子に,復活のイエスが現れて,証拠を見せてくれた,という記事が聖書にあります(ヨハネによる福音書20章24節以下)。

私たちにも,イエスさまが一緒にいて,助けてくださっていると感じることがあります。これを,イエスが生きて働いておられる「証拠」と感じることができたとき,イエスに従って生きていこうと思い,自分にとっても「死は終わりではない」と信じることができます。「復活」が医学的にどのような出来事であるかの説明は,人間の科学が完全でない以上,できていませんし,できないのかもしれません。しかし,イエスさまに助けられたという体験は,神の愛を信じるための確かな証拠と感じられることがあるのです。

〔いくつかの箇所で,ホームページ担当の一信徒の考えを書かせていただきました。〕

 聖書に「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」(コリント一3:19)とあるとおり、人間の頭で考えた知恵は、とても神様との知恵比べで勝てるものではありません。そのように、人の思い高ぶりをいさめる言葉は正しいように思えますが、最近の「反知性主義」(考えることを止める)や「ポスト真実」(何が真実かを知る必要はない)は、人間に世界の管理を委ねてくださった(創世記1:28)神様のご意志に反するのではないでしょうか。しっかり考えて、責任をもった行動をすることが、人間には求められているのだと思います。
そうでなくとも、最近は物事を単純化し、一見わかりやすく説明すればよい、という風潮があって、とても心配です。
たとえば、いわゆる「共謀罪」については、「テロ対策ならば、多くの人が賛成してくれるだろう」という考えから、法律に「テロ」という言葉を入れさえすればよい、という考え方があるようです。この法律の本当の問題は、共謀罪として何が処罰されるか、ということだけではなく、共謀罪の捜査の名目で警察が国民の日常生活に(GPSを仕掛けるなどして)足を踏み入れることを許してよいのか、そのための法律上の根拠を作ってしまってよいのか、というところにあるのに、それが見えなくされています。
もっと身近な「選挙」についても、私たちはもっと知恵を持つ必要があります。選挙では、「この人、この政党に政権を担当して欲しい」という人、政党に投票すれば良い、と教えられてきました。その結果、「他の候補や政党よりはマシだから」という理由で、一人の候補者や一つの政党に思いがけなく多数の票が集まり、驚くような選挙結果が起きています(国民投票でも、同じですね。)。「他に良い選択肢がない」からといって、「やりたい放題できるような票数を与える」ことは、余りに危険です。ある政党が政権を取ることは良いとして、国会や議会における他の政党の考え方を無視することはできない状態にしておくことが、政治を最も活性化するように思えます。
人間の知恵には限りがありますが、その知恵すらも使わなくなったとき、人間は神様の信託を受ける資格も失ったと言えるのではないでしょうか。(これも,ホームページ担当の一信徒の考えです。)