働くのは誰か

2014年6月22日(日)
寒河江健伝道師

マルコによる福音書 1章29~39節

 「すぐに,一行は会堂を出て,シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので,人々は早速,彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き,手を取って起こされると,熱は去り,彼女は一同をもてなした。夕方になって日が沈むと,人々は,病人や悪霊に取りつかれた者を皆,イエスのもとに連れて来た。町中の人が,戸口に集まった。イエスは,いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし,また,多くの悪霊を追い出して,悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
 朝早くまだ暗いうちに,イエスは起きて,人里離れた所へ出て行き,そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い,見つけると,『みんなが捜しています』と言った。イエスは言われた。『近くのほかの町や村へ行こう。そこでも,わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。』そして,ガリラヤ中の会堂に行き,宣教し,悪霊を追い出された。 」

     

  1. 17世紀オランダを舞台に活躍したレンブラントは,聖書物語に自分を投影させて多くの絵を描いた。彼が聖書を読むことが出来たのは,16世紀に起きた宗教改革のおかげであり,私たちもレンブラント同様に,聖書を母国語で読むことが出来る。ぜひ聖書を能動的・主体的に読み,躍動感ある生き生きとしたものとして親しみたいと願っている。
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  3. 今日の聖書箇所は,一読すれば理解できる。この話を読んで皆さんは何をどう感じたか。私はシモンのしゅうとめに注目したい。聖書には,「彼女は一同をもてなした」とある。「もてなす」と訳されている言葉は,原語では「ディアコニー/仕える,もしくは奉仕する」という意味で聖書に登場する言葉である。
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  5. シモンのしゅうとめと同様,実に多くの弟子たちが,「家」でイエス一行をもてなした。聖書には,女性たちはほとんど登場しない。しかし主イエスがおられる前線にお供する弟子と,後方で支える弟子の両方の存在が必要不可欠である。
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  7. 私は2011年3月11日に起きた東日本大震災を受けて,石巻にボランティアに赴いたが,被災の最前線でクタクタになるまで働く人びとにとって,後方支援は本当に大切なものであることを痛感した。どれだけ最前線に働き人がいたとしても,食料などの必要物資を送り届けて下さる方などの後方支援部隊がいなければ,持続的な活動は出来ないのである。
  8. 教会は,地上における家である。この家を支える弟子がいるし,最前線からクタクタになって帰って来る弟子たちがいる。社会の一線でも教会でも目一杯働くのは難しい。互いに支え合う必要がある。両方の場で,主イエスが働かれている。聖書には,主イエスがカファルナウムの会堂で働かれた後,家においても,シモンのしゅうとめを初め多くの人を癒やしたことが記されている。また主イエスは誰よりも朝早く起き,人一倍神に対して祈られた。主イエスは,「近くのほかの町や村へ行こう。わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」と語ってガリラヤ中の会堂に行き,宣教し,悪霊を追い出した。主イエスは今もなお世界中の至る所で働いている。
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  10. 本日の聖書日課には「伝道する教会」という主題が示されていた。伝道の中心は,イエス・キリストに他ならない。ただし伝道は,キリスト者が何か特別なものを持っていて,それをまだ持っていない人に伝えるという,上から下へという方向でなされていくのではない。そうではなく私たちは,信仰者として,至るところで主イエスが働いておられると信じて,肉体を通してイエス・キリストその人を証しするのだ。世界中の至るところで働かれているのは,主イエスご自身である。しかし,そのことを世界中に証しするために働くのは,私たちに他ならない。前方と後方にいる両者が,共に支え合いながら働いて,イエス・キリストを伝道する一つの教会として歩んでいきたい。