彼は立ち上がって

2013年2月10日
三吉信彦牧師

マルコによる福音書 2章13~22節
 

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

     

  • 灰の水曜日・受難節を覚えて、御言葉に学びたい。徴税人レビは、主イエスの「わたしに従いなさい」との呼びかけに応えて、収税所から「立ち上がって」イエスに従ったという。ペトロたちの召命の記事でも、「すぐに網を捨てて従った」とあり、パウロも復活のキリストの召しに応えて、すぐに方向転換し異邦人伝道者になった。聖書は彼らのその時の状況や葛藤について何も記さない。ただ主の呼びかけに応えた、その事実だけが大事なのである。私たちも受洗前には様々な迷いや葛藤があった。だが受洗の決意は一瞬、迷いも一切を振り切って飛び込んだのではなかったか。その「時」は時間の流れの中で質の違う特別な時・カイロスである。これは、クロノス・時間の流れの中に生きている私たちに、神が突然介入される「時」である。日常的な生き方の中に、次元の違った質的な変化が起きること、それが「主に従う」こと。その意味で「彼は立ち上がって」という言葉は、まことに凝縮された表現なのである。
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  • では日常性の中で「立ち上がる」とはどういうことか。レビはその後、主を招いて食事の時をもつ。彼にとってこの主と共なる食事は、まさに特別な至福の時。主イエスは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われた。義人や罪人とはこの世のクロノス的な世界、でもこの主と共なる食卓はカイロスの世界、まさに神の国の先取りであって、律法学者ではなく徴税人が招かれる、価値の転倒する世界である。私たちもクロノス・日常的な世界から「立ち上がって」礼拝へと招かれる。そして新たにされて、再び「立ち上がって」クロノスの世界へと戻るとき、その日常は質の違ったものとされる。マタイ福音書ではレビはマタイの名で使徒と暗示されるが、マルコ福音書では使徒のリストにはなく、家にもどり在家の弟子として生きたと考えられる。ザアカイが「財産の半分以上を貧しい人々に施し、だまし取った分は4倍にして返す」と言ったように、クロノスの世界にあって、主と共にカイロスの命を帯びて生きる生き方も大切である。
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  • それは18節以下の断食を巡る主の言葉からも確認される。ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちの断食のありようを主は否定された。習慣的に断食を守ることよりも、正義と公平を行うことこそまことの断食であるとしたイザヤ58章が背景にあろう。そして花婿のいる祝いの席で断食はしないと言われた。十字架の日には断食しても、よみがえりの喜びの日には、教会は「立ち上がって」主の喜びの食卓につく。教会は、いわば断食から立ち上がってこの世に出て行く群れである。ダビデはバテシバ事件を起こして、神の審きを受け赤子が打たれる。ダビデは自らの罪を悔い、断食してひたすら赤子の命の救いを祈り求めた。だが赤子が死ぬと、彼は地面から立ち上がり、身を清めて主の前に礼拝して食事をしたという。余りの合理的で思い切りの良さに驚かされるが、ダビデは赤子が死ぬことで神の審きは終わった。子が犠牲になったことを心に深く刻みつつ、王である彼は再び日常の政務に戻るのでる。教会は主の十字架を仰ぎつつ断食の席から立ち上がる群れ。新しいぶどう酒を新しい革袋に入れるように、復活の主の命、喜ばしい福音を「キリストの体」に盛られ、立ち上がって世界に出て行こうではないか。アーメン

【説明】
新約聖書が書かれたギリシャ語には、「時」を表す言葉がいくつかあります。その中の「クロノス」(普通に流れている時間)と「カイロス」(「期(とき)は今だ」というような特別の時間)という二つの言葉の意味の違いを参照しながら、聖書の言葉を私たちの生活に結びつける説教がなされています。