壊されえないもの

2011年9月18日(日)
三吉 明牧師

マタイによる福音書 10章26~31節
 

「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

フィリピの信徒への手紙 1章12~14節
 

兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

     

  • マタイ10章のこの箇所には「恐れるな」が3回繰り返されている。先の迫害予告を受けて、いくつかの主イエスの発言がまとめられた。どんなに命の危険がある時、死に瀕する時にも、神のほか恐れる必要はない。耳にささやかれたこと(神との人格的関係)を、屋根の上にて言い広めよ、雀のように自由に。雀たちはたとえ市場で2羽1アサリオン(デナリの16分の1)で売られていても、神の目に覚えられている。と、はじめはばらばらだった主の言葉が一つながりにされている。神のほか誰もあなたを滅ぼすことはできない、大水も暴力も、どんな苦しみ、病いも、あなたを壊すことはできないと私たちにも語りかけられている。この御言葉は人間の壊され得ないもの、〈尊厳〉と言われることについて確信を与える。これは主の弟子たちに対する単なる迫害予告ではなく、永遠の命の約束である。私たちはいつか神の前に出る魂を持って生きている。

  • 若い時から、この雀の聖句には励まし以上のものを受けてきた(自分を過小に捉え、自ら傷つく時など)。なぜ雀なのか。主イエスは鳥の声や姿がお好きだったに違いない。2羽セット(マタイでは5羽で2アサリオン)で売られ命を取られる雀をいとおしみ、通りがかりに弟子たちに教えられた。その時さらに続けて主は、なおさらあなたがたはその雀にまさって……と言われた。これは動物に対する人間の優位を保証したのではない。一羽の雀に御心を留められる神は、あなたという一人の人間をも見ておられる。人を恐れるな。この神をこそ恐れよと諭された。


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  • 神は人格の神であり、力の神ではない。様々な力が(時に神から来たかのように)私たちを押しつぶしても、神と人間の人格関係はなくならない、壊せないことをご自身十字架に死に勝利される方として語られた。この神への信頼によって、どんな事態もこえ、壊され得ないものとして私たちは神の御前に帰る。様々な力の脅威が世界を覆っている中、神の小雀として屋根(教会)で歌い、それぞれの命の尊厳を、地上にて最大限に生きたい。いつ生の終わりが来てもよいように。


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  • 二万人の命が一瞬に失われる経験をしたあと私たちは、何を恐れているか、何を恐れてはならないか、何を信じるか、あるいはもはや信じるべきでないか、と問われている。濁流に呑まれても、四肢を砕かれても、神のものである人間の魂・尊厳を持つ者、持たされた者として、自らと隣人たちを捉え直したい。獄中のパウロもまた同じ信仰に立った。今日は80才になられた方々を祝う日。長い歳月を生きて、ますます神の目から見た一人一人のかけがえのなさが、体は日々衰えても、輝いていることを喜び合いたい。アーメン