くじを引いて

2011年5月22日(こどもの日・花の日礼拝)
三吉 明牧師

使徒言行録 1章15~26節

 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。詩編にはこう書いてあります。
『その住まいは荒れ果てよ、
そこに住む者はいなくなれ。』
また、
『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』
そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

  • くじを引いて空席を満たす
     ユダの死によって〈十二弟子〉に空席が生じました。聖霊降臨を待つ間にペトロたちは、ユダが行くべき所に行った後を誰かにうめさせようと考えます。それが復活の主の命令であったのか、神の示しであったかどうか、聖書は何もふれていません。弟子たちは共に祈って、初めからイエスと共にいた人々の内、二人を選びくじを引くことにしました。空席を満たす人を決めることがペンテコステの出来事が起こる条件であったのでしょうか。それともただ50日間という長い待ち時間に、何かしないではいられなかったのでしょうか。いずれにしろ、それは旧約にさかのぼって考えると、聖なる行為であったにちがいありません。

  • 祭司のエフォドとウリム・トンミム
     旧約聖書では大事な時にくじを引きました。神さまの御旨はそれで知ることができると考えました。今日では別な結論の出し方(採決や選挙)をしますが、むしろ当時は人間の判断を避けました。ウリムとトンミムと呼ばれるものが、どんなくじだったのか(棒状かサイコロか)分かっていませんが、祭司の衣服の中央の胸ポケットのようなところにあったようです。くじが当たればもう逃げることはできません(ヨナの話ほか)。でもくじを引くのは少しワクワクするし楽しいものです。イエスさまの昇天とペンテコステの間のこのくじ引きの話はいろいろ解明できない点が多いのですが、興味深い事件です。

  • くじに当たったマティア
     くじはマティアという人に当たりました。そのときのマティアの気持ち、反応は何も書かれていませんし、その後のマティアの活動にも信仰にもふれられていません。このことからユダの空席をペトロたちが満たしたのは人間的な先走りだったと考えることもできます。本当に空席を満たしたのは、あのパウロだったとも言えます(ある伝説ではマティアはあの富める青年が主の元に戻ってきていたことになっています)。でもやはり十二人を、すべてをご存じの上でお立てになったイエスさまを思い、そのイエスさまのみ体である教会の誕生に備えて、やはりユダの空席はそのままにしておいてはいけなかったのでしょう。ユダはイエスさまを十字架に渡した、渡されたからこそイエスさまは父の御業を全うされました。そして、これから12人の弟子がイエスさまの命の福音を広く遠く世界中まで渡して(宣教)いく教会の歩みが始まろうとしているのです。私たちも自らの欠けはあっても、イエスの命を人に渡しつつ生きるのです。

  • 空席に必要なのは花です
     今日は花の日。ユダのために花を投げた人がいたかどうかは分かりません。悲しみよりも別の思いが、残された弟子たちを支配していたかも知れません。でもくじを引くという決断は〈十二人〉という名目のためではなく、去っていったユダのための業であったと私は考えたいと思います。あなたの中に私の中に、空席になっているままの隙間はありませんか。あなたの心の悲しみの空席に花束を置き、祈って新しいことの起こるくじを引きましょう。聖霊よ、来たりませ。アーメン