教会の暦から

待降節(たいこうせつ)、そしてクリスマス
CalendarS2022
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私たちが信じているキリスト教は、イエスという一人の人が、神様のメッセージを伝えたことから始まりました。このイエスという方は、DNAの点でも私たちと変わらぬ人間です。恐らく、幼い頃から神様のことを考え、お祈りすることによって神様のメッセージを受け取ることができたのでしょう。

イエスが生きた時代には、ユダヤ人の住む地域はローマ軍によって占領され、民族間の軋轢(あつれき)が激しく、だからこそ国内(ユダヤ人の内部)でも、位の高い人、宗教指導者と一般庶民との間には歴然たる格差がありました。そうしたすさんだ社会を見てイエスは……群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
(マタイによる福音書 9章35~36節)
、イエスは「これは、神様の望まれる世の中ではない。人々を助けなければ」と考え、「互いに愛し合いなさい」という神様のメッセージを伝え始めたのです。

イエスはまた、病気の人をたくさん癒やされました。言葉を掛けることによって癒やすことも、また唾で土をこねて塗ることによって癒やすこともさて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。
弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。……」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
(ヨハネによる福音書 9章1~7節)
。これも、神様の愛を多くの人に知ってもらうためでした。イエスは、生まれつき癒やしの能力をもった「スーパー人間」だった訳ではなく、恐らく神様が「この人物ならば、私の考えを間違えなく人々に伝えてくれるだろう」と考えて、イエスを介して働いてくださったのか、と思われます。実に、イエスは神様の心をしっかりと受け止め、「互いに愛し合いなさい」というメッセージを伝え、人々がそれまで犯したエゴイズムの罪を(ゆる)してゼロからスタートする機会を与えるために、十字架で死ぬことまでしてくださいました。――元々はイエスのことをスーパー人間と思って弟子になった人々も、この姿を見て、イエスは神様の心を最もよく伝えてくださる「神の独り子」だ(そういう言い方がふさわしい方だ)、と理解するようになったのではないでしょうか。スーパー人間でないこのイエスさまが、死後しばらくの間、弟子たちの目に見える形で現れ、ご自分のこの世での役割について教えられたことも、弟子たちを力づけました。何しろ「スーパー」でなくても「死に打ち克つ」ことができるならば、およそ「スーパー」と縁のない私たちも、死を恐れる必要がなくなるのですから。

クリスマスは、このイエスさまのご誕生――つまり、これほどに神様の心を捉える方がこの世に現れてくださったことを記念し、祝い、感謝する日です。一般庶民である母マリアが、しかも旅行中に産んだ子なので、馬小屋で生まれた、ということが聖書に書かれていますところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
(ルカによる福音書 2章6~7節)
。聖書を書いた人たちには、まさにそのような境遇で誕生し、やがて神様のメッセージを伝えて人類を助ける方――スーパー人間でない普通の人で、でももっとすごい「神の子」である方――と受け取られたのでしょう。私たちも、その意味で愛に満ちた「神の子」として、イエスさまを信じ、クリスマスをお祝いしています。そして、そのクリスマス前の4回の日曜日は、「待降節(たいこうせつ)」といって、クリスマスを待ち望む期間です。今年は、11月28日から始まります。

皆さんもご一緒に、イエスを待ち望み、その伝える神様のメッセージを心に受け止めませんか。

〔いくつかの箇所で,ホームページ担当の一信徒の考えを書かせていただきました。〕

 「自己責任」という言葉が、最近の流行ですね。「人間は、自分のことを全て自分で処理しきれる」ことが前提となって、各自、自分でなすべきことを他人に頼るな、という考え方だろうと思います。でも少し考えれば、人間ってよく失敗したり、病気になったりして、決して自分一人では生きていけないことを知っているのではないでしょうか。それでも何とか生きているのは、誰かのサポートがあるからです。ご自分の場合を振り返って、誰のサポートだか、お分かりですか。何だか分からないけれども「助かったー!」という場合も、よくありますよね。神様が、そっと助けてくださった可能性もゼロではありません。…?
 イエスさまの生涯を考えると、本当にマリアさんだけで生まれたのか、本当に復活したのか、といろいろ気になることがあります。証拠がありませんから、私たちも分かりません。でも、私たちが、自分の力だけで生きているのではなく、誰か――神様かも――の助けによってピンチから逃れることができていることを感じるならば、神様が人間の世界に手を差し伸べているかもしれない、と実感しませんか? それなら、イエスの復活のときも、手を差し伸べたのかもしれない。だって、その場合には神様は手を差し伸べてはいけません、という決まりはないのですから。
 聖書の伝える出来事は、少なくとも聖書を書いた人たちにとっては、命がけの真実だったはずです。そう信じていたのです――当時の科学の知識を前提として。そして、現代の私たちにも、神様に支えられて生きている感じがあるならば、現代科学から見ての真偽は気にならなくなります。現代科学からは間違いだけれども当時の人は真剣に信じたのかもしれないし、現代科学でも解けない謎の出来事なのかもしれない。そういうことを気にしているよりも、自分の周りに苦しんでいる人がいないか、イエスさまから2000年後の現代までに人間が作り上げた政治システムがうまく機能しているのか。「互いに愛し合いなさい」というメッセージを聞いたら、そういうことを考える方が余程気になりますし、私たちの責任になるのかもしれません。(これも,ホームページ担当の一信徒の考えです。)