教会の暦から

復活節
CalendarS2022
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 DNAの点で私たち人間と何ら異ならないイエスという方が、祈りという神様との対話の中で神様に教えられたこと。その一つとして、人が救われて、永遠の命を受け継ぐためには「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、神を愛しなさい」、そして「隣人を自分のように愛しなさい」ということがありました……ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」……
(ルカによる福音書 10章25~28節)
。またイエスは、その愛の一つの姿として、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とも語られヨハネによる福音書 15章13節、エゴイズムの罪に溺れている私たち人間を助け出すために、身代わりとして十字架に架かってくださいました。
 罪の赦しを神様に願うために、人間の身代わりとして動物を献げる、という習慣は、日本にはあまりないので、何か違和感があるかもしれません。しかしイエスは、彼が生きたその地、その時代の人たちに、最もわかりやすい形で「イエスは私たちの罪の赦しを願うために、自らを献げてくださった」というメッセージを伝える方法として、十字架上での死を受け入れてくださったのだと思います。しかも死後2日で(3日目に)再び弟子たちに姿を現されて、死が終わりではないことをも示してくださったのです。
 しかし、イエス・キリストはご受難(十字架上の死)の後、復活されました(イースター。今年は4月17日)。そして何度か弟子たちの前に現れ、魚を食べてみせたりイエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。…
(ルカによる福音書 24章41~43節)
十字架で負われた傷を見せたりその日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
(ヨハネによる福音書 20章19~20節)
されました。この「復活」という出来事も、医学の立場からは説明できないことですが、弟子たちには「イエスさまが本当に、再び一緒にいてくださる」という確信を与える数多くの出来事があったことは、確かなのだと思います。まるでイエスさまが生きておられるようなバーチャルなイメージが弟子たちに生じたのか、それとも本当にイエスの身体が動き出したのか(人を「創り出した」神様ならば、「生かし直す」こともできるでしょう。)、全くわからないけれども、弟子たちがその後、死に物狂いでイエスのメッセージを世界に伝えようと働き始めたことからすると、ものすごく現実感のある出来事であったのは確かなのではないでしょうか。
 聖書から読み取ることのできるイエスの弟子たちの姿から、私たちも、イエスが復活されたこと、死が終わりではないことを感じ取り、信じることができました。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスの伝えた言葉が、ほんとうに神様から私たちに与えられた言葉であると信じ、何とかそれに従うことができるよう努めているのです。

〔いくつかの箇所で,ホームページ担当の一信徒の考えを書かせていただきました。〕

 「自己責任」という言葉が、最近の流行ですね。「人間は、自分のことを全て自分で処理しきれる」ことが前提となって、各自、自分でなすべきことを他人に頼るな、という考え方だろうと思います。でも少し考えれば、人間ってよく失敗したり、病気になったりして、決して自分一人では生きていけないことを知っているのではないでしょうか。それでも何とか生きているのは、誰かのサポートがあるからです。ご自分の場合を振り返って、誰のサポートだか、お分かりですか。何だか分からないけれども「助かったー!」という場合も、よくありますよね。神様が、そっと助けてくださった可能性もゼロではありません。…?
 イエスさまの生涯を考えると、本当にマリアさんだけで生まれたのか、本当に復活したのか、といろいろ気になることがあります。証拠がありませんから、私たちも分かりません。でも、私たちが、自分の力だけで生きているのではなく、誰か――神様かも――の助けによってピンチから逃れることができていることを感じるならば、神様が人間の世界に手を差し伸べているかもしれない、と実感しませんか? それなら、イエスの復活のときも、手を差し伸べたのかもしれない。だって、その場合には神様は手を差し伸べてはいけません、という決まりはないのですから。
 聖書の伝える出来事は、少なくとも聖書を書いた人たちにとっては、命がけの真実だったはずです。そう信じていたのです――当時の科学の知識を前提として。そして、現代の私たちにも、神様に支えられて生きている感じがあるならば、現代科学から見ての真偽は気にならなくなります。現代科学からは間違いだけれども当時の人は真剣に信じたのかもしれないし、現代科学でも解けない謎の出来事なのかもしれない。そういうことを気にしているよりも、自分の周りに苦しんでいる人がいないか、イエスさまから2000年後の現代までに人間が作り上げた政治システムがうまく機能しているのか。「互いに愛し合いなさい」というメッセージを聞いたら、そういうことを考える方が余程気になりますし、私たちの責任になるのかもしれません。(これも,ホームページ担当の一信徒の考えです。)