オリーブの木と王様

2011年10月31日(日)
三吉信彦牧師

士師記 9章6~15節

 シケムのすべての首長とベト・ミロの全員が集まり、赴いて、シケムの石柱のあるテレビンの木の傍らでアビメレクを王とした。このことがヨタムに知らされると、彼はゲリジム山の頂に行って立ち、大声を張り上げて言った。
「シケムの首長たちよ。
わたしの言うことを聞いてください。
そうすれば、神はあなたたちの言うことを
聞き入れてくださる。
木々が、だれかに油を注いで
自分たちの王にしようとして
まずオリーブの木に頼んだ。
『王になってください。』
オリーブの木は言った。
『神と人に誉れを与える
わたしの油を捨てて
木々に向かって手を振りに
行ったりするものですか。』
木々は、いちじくの木に頼んだ。
『それではあなたが女王になってください。』
いちじくの木は言った。
『わたしの甘くて味のよい実を捨てて
木々に向かって手を振りに
行ったりするものですか。』
木々は、ぶどうの木に頼んだ。
『それではあなたが女王になってください。』
ぶどうの木は言った。
『神と人を喜ばせる
わたしのぶどう酒を捨てて
木々に向かって手を振りに
行ったりするものですか。』
そこですべての木は茨に頼んだ。
『それではあなたが王になってください。』
茨は木々に言った。
『もしあなたたちが誠意のある者で
わたしに油を注いで王とするなら
来て、わたしの陰に身を寄せなさい。
そうでないなら、この茨から
火が出て、レバノンの杉を焼き尽くします。』

ガラテヤ書 1章13~17節

 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。

  • 本日の説教は、修養会の主題講演となります。修養会主題は「キリストの香りを届けよう」、今年の聖句はイザヤ書35章「荒れ野よ、荒れ地よ、花を咲かせよ……」です。はからずもこの聖句が今、日本が置かれた状況を表すものとなりました。ただ、この預言が終末の理想郷を夢見るだけ、言葉だけ、お題目を唱えて、自己満足で終わってはならない。荒れ野に花を咲かせ、砂漠に水が流れるためには今何をなすべきか。

  • 士師記9章は風刺歌です。木々が仲間のオリーブ、いちじく、ぶどうに王になるように頼みますが、一様に断られます。そこで茨に言うと、茨は引き受け王となります。ここで、最初の3つの果樹はイスラエルに神から与えられた恵みのしるし、一方最後の茨は荒廃の象徴。この戯れ歌は、王制以前の士師時代に外敵に対応するために王をたてようと画策した動きを牽制したものです。直前の勇者ギデオンは、イスラエルの王はただ神のみとの信仰に立って、王になるのを拒んだのに、不肖の息子アビメレクは自ら引き受けた。彼は兄弟70人を殺戮、一人生き残った弟ヨタムは、「アビメレクは茨、棘を持ってイスラエルを苦しめ、油分の多い茨から火吹き出しすべてを焼き尽くすだろう」と警鐘を鳴らしたのです。事態はヨタムの預言通りになります。

  • ここで注目すべきはオリーブなどが断ったそれぞれの理由です。自分たちには神からの豊かな賜物がある。それらを捨ててまで王になるつもりはない。木々に手を振るとは、尊大な王の姿を揶揄したもの。王は災いを引き起こす、自分たちの賜物は神と人に喜びと誉れをもたらすと。つまり自分に与えられた恵みを大切に、自らを生かすことこそ神の求められていることだ、というのです。


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  • スマップの「世界に一つだけの花」の歌詞に通ずる。「ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」の出だしに始まり、花は人間と違って競って一番になろうなんて考えない。ひとりひとりが自分の花を咲かせることが大事と、競争社会、国際社会の覇権主義などを風刺している。核競争や党利党略に使う労力の無駄、無能力な政治家の招く疲弊などまさにしかり

  • パウロは、律法に関して人一倍熱心だった。けれどそこで得たものは挫折。キリストに出会って糞土のごとく捨てた結果、まさに彼にだけに与えられた使命に生きたのではなかったか。大事なことは、自分に与えられた恵みに気づき、それを大切に育て、自分だけの花を咲かせること。それが証です。被災地の荒れた大地で咲いた一輪の梅の花、それが多くの人々に希望を与えました。自分の花が誰の目に止まり、どんな効果があるのか花は知らない。それを活かし用いて下さるのは神。自分はただあるがままの私の花を咲かせるだけ。これが今年の修養会のテーマであり、荒れた日本の状況に対する聖書のメッセージであります。