現臨するキリスト

2019年3月3日(日)第1公同礼拝
西岡昌一郎牧師

エフェソの信徒への手紙1章23節
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

  • きょうの聖書の言葉によれば、教会は「キリストの体」です。人の体はその人の存在を具体的に現わしているものです。したがって、教会は、この地上においてキリストがいきいきと働いて現されているところということになります。
  • 「教会はそれ自身が現臨するキリストである。地上における神の現臨がキリストである。地上におけるキリストの現臨が教会である。」(D.ボンヘッファー)
  • 過ちや欠点だらけのわたしたちがキリストを現わす教会の一員だということは、なんとも畏れ多いことですが、これはそんな者をもキリストの体として用いて必要としてくださる神の憐れみなしには成り立ち得ないことです。
  • 同時に教会は、「呼び集められた者」(エクレーシア)です。たとえ礼拝堂がなくても、主の名において、招かれ、集められているところに教会はあるのです。
  • 教会は、第一に「公同の礼拝」をします。世界中どこへ行っても、礼拝をしない教会はありません。
  • 第二に「福音」を正しく(聖書に基づいて)宣べ伝えます。正しいのは人間ではありません。神さまの御言葉です。聖書の言葉に基づきながら、キリストの救いの知らせを語って行くのです。
  • 第三に「洗礼と聖餐の聖礼典」を執り行います。いずれも、わたしたちがキリスト者として生きて行く上で、キリストが制定した重要な儀式です。
  • 第四に「愛の業に励みつつ、主の再び来る時(終末・再臨)」を待ち望みます。失望と不条理を禁じ得ない世の中にあってもなお終わりの日を待望する希望を失わず、産みの苦しみにも似た困難と向き合いつつ生きて行くのです。この希望のゆえに、教会はこの世の人たちと共にあることを貴び、インマヌエル(神が私たちと一緒におられる)の主の愛を伝えていきます。
  • 最後に、教会はクリスチャンのためだけにあるものではありません。キリストはクリスチャンのためだけに十字架で肉を割かれ、血を流されたのではないからです。パウロによれば、主は、弱く不信心で、罪人であった者のために死んでくださったことで、わたしたちに対する神の愛を示されました。そればかりか、主はご自分に敵対する者のためにさえ、死んで行かれたことによって神との和解をもって、わたしたちを救ってくださったのです。

    ローマの信徒への手紙5章6節〜10節
    実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

  • だから、そのキリストの体なる教会は、信者たちのためだけにあるのではありません。まだ主を知らない人たち、未信者たちのためにも教会はあります。教会はこじんまりと信者の交わりだけになって満足していてはいけません。まだ主を知らない人たちに対して、もっと言えば、主に敵対している人たちに対してさえ、「そんなあなたが必要なのです。」との主の招きを伝えて行くところ、それが教会なのです。
  • このようにして、わたしたちの教会は、この地上において現臨しておられるキリストを身をもって証ししているのです。