正しさに勝るもの

2018年7月4日(日)公同礼拝
西岡昌一郎牧師

ルカによる福音書18章9~14節

 
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

  • 宗教者であるわたしたちは、神の名の下に正義や正しさを大切にしようとしてきました。わたしたちの信仰の理想を正しさの中に求めてきました。たしかに、神さまは正しいのですが、しかしわたしたち人間の正しさには、いつも一つの限界があります。わたしも牧師として経験するのは、自らの立場の正しさを強調すればするほど、お互いの違いやズレばかりが明らかになってしまうことです。正しさが人を断罪する裁きの道具になってしまうのです。確かに間違ってはおらず、正しい理屈なのかもしれませんが、しかし意に反して、時にはそれが相手をひどく追い詰め、切り捨ててしまいます。正しいことを言う場合には、人を傷つけやすいことを知っておかなければならないのです。
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  • きょうの聖書の箇所は、この正しさに関わる問題がテーマです。律法を正しく間違いなく守っているファリサイ派と、もう一人はローマの税金を徴収して、そこから不正に取り立てた分はそのままピンハネして自分の懐を肥やすような仕事をしていた徴税人が出てきます。徴税人は律法を守ろうとはせず、ユダヤ民族の裏切り者として仲間はずれにされていました。きっとこの徴税人には、いろんな問題があったに違いありません。ファリサイ派と比較して、どちらが正しいかと言われれば、これは文句なくファリサイ派です。ファリサイ派と言うと、偽善者の集まりだと考えている人がいるかと思いますが、実はそうではなくて、むしろ、まじめで熱心な信仰を持っていた人たちです。ところが、ここでイエスはファリサイ派の祈りではなくて、徴税人の祈りをお喜びになりました。なぜでしょうか。イエスが重視したことは、過ちや失敗を犯さないことではなくて、神の前に悔い改めて立ち直ろうとすることだったのです。大切なのは間違いを犯さないことなのではなくて、率直に悔い改めることです。たとえつまずいて転んだとしても、そこから何度でも立ち直ることの方が人間として大事な部分なのです(箴言24章16節【神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまずく。】)。わたしたちは失敗から学び取るべきことは多いのです。
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  • もちろん間違いや失敗がないに越したことはありません。けれども失敗を指摘し、それを問題視することが、われわれの信仰の最終的な目的なのではなくて、たとえ間違って倒れたとしても、でもそこからもう一度、真実に向かって立ち上がっていく勇気を呼び起こすことが、もっと必要なことなのではないでしょうか。わたしたちが正しく生きようとすることよりも大切なことは、つまずいてもそこからもう一度立ち直ることです。それが福音(喜ばしい知らせ)なのです。イエスは、徴税人の祈りの中に、そのような大切さを見ました。
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  • 一方きょうのファリサイ派の人は、隣りで祈る徴税人を見て、自分はあんな罪深い者ではないことを感謝して、自分の正しさを誇りました。でも、この人には、何かが足りません。それは信仰の喜びです。罪深い人間がそれでもなお神さまの愛によって立ち上がろうとして、受け入れられて生きることができる喜びです。人の間違いばかりを数え出し、息の詰まるような信仰のいったい何が良いのでしょうか。もし、わたしたちの信仰がどんなに正しかったとしても、この喜びを見失うなら、そんな正しさに勝る、もっと素晴らしい信仰があるということを、受け取りなおす必要があります。自分で喜んでもいない信仰など、人に伝わるはずがありません。わたしたちは、神さまの前に率直に悔い改める勇気をもつことで、もう一度立ち直り、やり直すことができることで、神さまに受け入れられている幸いがあります。それによって、わたしたちの信仰は輝き始めるのです。
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