扉を開ける

2018年10月7日(日)世界聖餐日公同礼拝
西岡昌一郎牧師

ヨハネ黙示録3章14節〜22節

ラオディキアにある教会の天使にこう書き送れ。『アーメンである方、誠実で真実な証人、神に創造された万物の源である方が、次のように言われる。 「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。 そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。 勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように。 耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」』」  

  • ヨハネ黙示録は、当時のラオディキアの教会を「冷たくも熱くもなく、生ぬるい」と言いました(15節)。当時、飲み水は井戸や川から汲み上げられたばかりの冷たい水か、沸かしたお湯のどちらかでした。中途半端にぬるくなった水は、新鮮さを失い、淀んで腐りかけています。だから「口から吐き出そう」(16節)となるのです。水は、冷たいか熱いのが良いのです。
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  • 黙示録がラオディキアの教会に伝えたのは、あなたたちの信仰が淀んだたまり水のようになって濁り出している、ということです。水は、いつもサラサラと流れていないと、やがて淀みます。新鮮な空気を含んだみずみずしさが必要なのです。ラオディキアの教会は、新しいものを取り入れる気持ちがなく、淀んでしまっていたのです。「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者」(17節)であることがわかっていません。
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  • これは、どういう意味でしょうか。ラオディキアは大きくて豊かな町でした。それゆえに、自らが神さまからの助けを必要としていることに気づかず、その恵みを渇望する気持ちがなくなっていたのです。要するに、自分だけで満足して閉じてしまっているのです。自分の惨めさや貧しさ、不自由さを知る者たちは、自ずと渇きの心、渇望する心を持ちます。周りに対して開かれるのです。満ち足りていると、いつしか周りとの関係の必要性を感じなくなり、自分を閉ざしてしまい、やがて信仰は活力と命を失なうのです。
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  • だから「悔い改めよ」(19節)と語ります。これは言い方を変えれば、人の痛みと弱さに立って物事を見直せということです。そういう価値観の転換がなくては、いくら悔い改めたと言っても、何にも変わっていないのです。この時のラオディキアの教会に必要だったのは、弱さと痛み、生きづらさの視点でした。
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  • 「見よ、わたしは戸口に立って、叩いている。誰かわたしの声を聞いて、戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をする」(20節)。これは、この世の終末の時に、再び来られるキリストの言葉として読むことができます。その時、わたしたちに求められているのは、その主に対する応答(責任)です。主は、わたしたちの心の扉を叩きますが、それを開けるかどうかは、わたしたち自身の信仰と責任の問題です。主のノックに対して応答して、心を開く。自らの貧しさと渇きを覚えなくては、主に対して扉を開けることはできません。
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  • けさ、わたしたちは、世界の教会と共に主の食卓にあずかります。主の食卓は、やがて世の終わりの時に来たる神の国での祝宴の先取りです。この食卓は、「あなたなしでは」成り立たない神の国での関係を表わしています。
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  • しかも、わたしたちと食卓を共にしてくださる主は、自ら十字架の傷と痛みを背負った主でした。この主が受けた十字架の痛みとは、わたしたち人間の罪のための痛みでした。それゆえに、このような傷と痛みなしでは、けっして気づくこともなかったであろうありがたさがあります。こんな自分を必要と感じてくださっている主がおられ、それゆえに、わたしたちもキリストなしでは成り立ち得ない人生を生きる者とされたのです。
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