「わたしの証人となれ」

2019年6月2日 主日公同礼拝
西岡昌一郎牧師

使徒言行録1章3〜11節
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

  • 教会暦では、去る5月30日がキリストの「昇天日」でした。使徒信条では、イエスが「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に降り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。」とあります。これはイエスが天におられる父なる神の独り子であるという信仰に基づくものです。その神の子がこの地上にわたしたちと同じ一人の人間となって生まれ、人間としての苦しみ悲しみを背負い、十字架で殺されて死んだ後は、三日目に復活して、ついに父なる神のもとに帰るために天に昇ったという信仰です。このキリストの昇天は、わたしたちにとって信仰的に何を意味するものなのでしょうか。
  • 当初弟子たちは、イエスの十字架を前にして自分たちがイエスの仲間であることを知られるのを恐れました。そればかりか、イエスのもとから逃げ出して、ペトロに至っては三度イエスを知らないと言って主を否みました。でも、そんな不甲斐ない弟子たちが、後には堂々とイエスを宣べ伝える者に変わりました。この変わりようは目をみはるものがあります。そうなるまでに、実は彼らはイエスの十字架の死から聖霊降臨の出来事までの7週間、イエスの復活、そして昇天を体験していたのです。つまり、この時期こそキリスト教信仰が生み出されていくための必要不可欠な時となりました。この時間は弟子たちにとってはイエスの十字架を幾度も思い起こし、これを受け取り直しながら、深い挫折感の中から立ち直っていくために要した再生と再出発のための時間でもありました。十字架のイエスの出来事が、復活と顕現(3節)、昇天(9節)を経て、弟子たちが向き合っていく未来を見据え、今この時を生きて行くことを決意するための根源的な出来事になったわけです。
  • わけても「昇天」は、弟子たちにとって、この地上でイエスと行動を共にして生きてきた歩みに対する一つの区切りになりました。残された弟子(使徒)たちが天に昇って行くイエスを見上げていた時、二人の天の使いが「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」(11節)と語りました。
  • これは、地上にあるイエスの時代が完結して、今や新たな段階、世の終わりに主が再臨するまで続くことになる「聖霊と教会の時代」を迎えたということです。天を見上げていた弟子たちが、今自分たちが立たせられていく新たな時代へと目を転じて、それを展望し始めたのです。
  • 弟子たちは、昇天していくイエスの言葉を聞きました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8節)
  • エルサレムからユダヤとサマリア、さらには地の果てに至るまでとあります。長く宗教的に対立し合っていたユダヤもサマリアも、その隔ての中垣を超えて、イエスの福音は地の果てに至るまで証しされるのです。この「地の果て」とは辺鄙な所という意味ではありません。当時の人々にとって想像することのできる範囲、つまり、わたしたちの日常生活の全領域に福音を伝えよという言葉なのです。弟子たちは、主イエスからその使命と課題を示されたことで、自分たちが新しい段階に入ったことを知りました。このイエスの言葉から受け止めるべきは、生活のあらゆる場面と全領域が主からの使命をもって送り出されて行く場であることに目覚めることです。それがイエスの昇天という出来事の体験内容です。
  • これからの一週間とは、わたしたちにとってのユダヤとサマリア全土、地の果て、つまり全領域が「わたしの証人となれ」との主の使命を受けて送り出されて働く場なのです。このように、日常生活のすべては、わたしたちにとって主の証人となる使命を担うために無駄なものなど何一つないのです。