わたしのため祈ってください

2018年4月8日(日)公同礼拝
西岡昌一郎牧師

エフェソへの信徒への手紙6章18〜20節

 
どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

  •  パウロはエフェソの会衆に対して「わたしのためにも祈ってください。」と書き送りました(19節)。福音のためにパウロは自ら祈る人であったのはもちろんのこと、絶えず誰かのために祈り続けていた人であったに違いありません。そのパウロが自分のために祈ってほしいと述べているのです。この言葉の意味するところは、「祈られる」ことの大切さです。
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  • わたしも牧師として祈ることは自分の日常の務めです。自分のために祈ることはもちろん、教会員のために、求道者のために、子どもたちのために、他の誰かのために、絶えず祈ります。
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  • その一方で、わたしが学ばされたことは、祈られることの必要性です。とりわけ熱心に祈っている人、一生懸命に奉仕したり、働いたりする人、あるいはまた大きな責任を背負い、重たい課題や問題、悩みを背負っている人たちにとって大切なことは、誰かから祈ってもらうことです。どんなに祈り熱心で信仰熱心な人であっても、時には祈れなくなってしまうことがあるものです。祈る言葉を見失うような経験をするのです。心の疲れ、動揺、不安、恐れのあまりに、祈る気力を失うことさえあります。そのような時、その人は自ら祈ろうとすることだけではなくて、誰かから祈られることが求められているのだと思います。祈れない時、その人は祈ってもらう時を迎えているのです。祈りは、ただみずから祈ることだけではありません。誰かに祈ってもらえることもまた大切な祈りの経験です。
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  • このような祈りがあるからこそ、欠けた器であるわたしも何とか牧師が務まったのだと思って感謝しています。祈られていることから来る信仰の力を軽く見てはいけません。祈ろうとしても祈れなくなった時には、自分が祈ってもらう番になったのだと考えましょう。また祈れなくなっている人を見た時には、その人のために今度は自分が祈る番を迎えているのだと受け止めましょう。
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  • キリスト者にとって一切のことは祈りと共にあります。キリスト者は何かを語る時には、言葉を口から出して言い放つだけで満足するのではなく、祈って言葉を語ります。心砕いて誰か人のことを想う時、祈って心砕きます。誰かを支える時にも、祈って支えます。ただ行動しているのではありません。御業のために祈って働き、自らを用いていただきます。そして、それら一切のことを神さまに感謝しているのです。
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  • 千葉教会でわたしが牧師として働いていくためには、みなさんからの祈りのお支えが必要です。
    「わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈っていください。」(19節)
    「語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」(20節)