教会の暦から
聖霊降臨節
イエスさまが死からよみがえられた復活祭(イースター)から50日目(今年は5月28日)が、聖霊降臨日(ペンテコステ……ギリシャ語で50番目という意味)です。
この日、イエスの弟子たちが集まっているところに、天から聖霊が降りてきて、弟子たちは、それまで知らなかった他国の言葉で語り始めた、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」
新約聖書「使徒言行録」2章1節以下と言われています。
すでにイエスさまご自身は天に昇られ「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」
(「使徒言行録」1章9節)(つまり、目に見える形では地上におられなくなり)、地上には弟子たちだけが残され、しかも弟子たちはイエスさまから「全世界にわたしの教えを伝えなさい」と命じられていた「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。……」
新約聖書「マルコによる福音書」16章15節のですから、さぞや弟子たちは「どうしたものか」と困っていたのではないかと思います。そこに、神の力、神の働きを伝える聖霊が遣わされたことによって、弟子たちは、イエスさまの教えを伝える力を与えられたことでしょう。しかも、自分の知らない言葉で語ることさえできた、ということは、これからイエスの教えが、全世界に伝えられて行くことを象徴しているように思います。世界中にキリスト教が伝わり、教会が形作られる基になったということから、聖霊降臨日は「教会の誕生日」と言われることもあります。
イエスさまの生涯を考えると、本当にマリアさんだけで生まれたのか、本当に復活したのか、といろいろ気になることがあります。証拠がありませんから、私たちも分かりません。でも、私たちが、自分の力だけで生きているのではなく、誰か――神様かも――の助けによってピンチから逃れることができていることを感じるならば、神様が人間の世界に手を差し伸べているかもしれない、と実感しませんか? それなら、イエスの復活のときも、手を差し伸べたのかもしれない。だって、その場合には神様は手を差し伸べてはいけません、という決まりはないのですから。
聖書の伝える出来事は、少なくとも聖書を書いた人たちにとっては、命がけの真実だったはずです。そう信じていたのです――当時の科学の知識を前提として。そして、現代の私たちにも、神様に支えられて生きている感じがあるならば、現代科学から見ての真偽は気にならなくなります。現代科学からは間違いだけれども当時の人は真剣に信じたのかもしれないし、現代科学でも解けない謎の出来事なのかもしれない。そういうことを気にしているよりも、自分の周りに苦しんでいる人がいないか、イエスさまから2000年後の現代までに人間が作り上げた政治システムがうまく機能しているのか。「互いに愛し合いなさい」というメッセージを聞いたら、そういうことを考える方が余程気になりますし、私たちの責任になるのかもしれません。(これも,ホームページ担当の一信徒の考えです。)