「弱さを誇りましょう」

2019年8月4日 主日公同礼拝
西岡昌一郎牧師

コリントの信徒への手紙 二 11章22~33節
彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。

  • きょうは「平和聖日礼拝」の日です。日本社会に暮らす者として、8月はかつて日本が起こした戦争の過ちと敗戦の記憶を心に刻む時です。「過去は未来を照らす光」です。かつての歴史を振り返り、そこから学び、改めて行くべきことをもって未来への光とするのです。
  • 現在のわたしたちは、戦争の不安と危機感が高まる時代を生きています。多くの人たちは誰も戦争など望んでいないでしょう。なのに戦争は繰り返されます。問題解決の手段として武力という手段を選ぶからです。これは「強者の論理」での解決方法なのでしょう。
  • これとは対照的なのが、「弱さの論理」、弱くされている人の立場からの視点です。痛みを背負っている人の立場から物事を考えていく視点です。これは往々にして理想主義的で、非現実的とみなされます。でも、これは力の論理では抜き差しならない時にこそ、かえって有用な視点を与えます。すなわち力を振りかざして強引に相手を従わせるのではなく、弱さがあるゆえに、むしろお互いが必要とされることで変えられていく視点です。
  • 相手に対して力づくで言うことを聞かせようとするのではありません。弱さを受け止め、自ずと繋がり支え合おうとするのです。不完全なところがあり、破れや弱さを背負っていることを自覚して、お互いの成長のステップとするのです。
  • ジャン・バニエは、「平和のために働くとは、そばにいる人が自分を苛立たせ、異なった考え方をし、自分を脅かし、自分を低く見、苦悶を目覚めさせる時、それでもその人を迎え入れようとすることなのです。その人を裁かず、断罪しないことです。その人も命と平和を求める人間なのです。その人はライバル、敵ではなく、私たちと同じように傷ついた一人の人間、兄弟姉妹なのです。」と語りました。
  • 敵と思う人ですら、自分たちと同じように傷ついた一人の人間だという事実に向き合うことで、相手を受け入れることができると言うのです。これは容易なこととは思えません。
  • 使徒パウロにはイスラエル人としての自負は他の誰にも負けないものがありました(22節)。これはパウロの誇りであり、強さだったのでしょう。しかし、そんなパウロが伝道者として受けた苦労の数々を23節以下で具体的に書き記してから、「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまづくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。」(29節)と言いました。パウロもまた、弱さの視点から生きていく豊かさを見出した人でした。そしてそれを心熱く福音として語る人となりました。
  • 国家という権力の視点から見れば、戦争をする大義名分や正当性はいろいろと出て来るに違いありません。しかし、戦争の犠牲を被っている人たちの視点から戦争を考えてみれば、それとはまったく違った現実が見えて来るのもまた確かです。武力や権力という強さでこの世を変えるのではなくて、小さく弱いものに対する共感や良心を呼び覚ます力によって、この世を支えるのです。パウロが見ていた力とはそういう力ではないでしょうか。
  • イエス・キリストもまた、みずから十字架の痛みと傷を背負われました。十字架の傷は、主ご自身が担われた弱さそのものです。しかし、この十字架の弱さを通してしか伝えることのできない人間の罪深さとそれを贖ない出そうとする神さまの力を示されました。
  • 「誇る必要があるのなら、わたしの弱さに関わることを誇りましょう。」とパウロは記しています(30節)。弱さや傷、苦しみ、痛みから、わたしたちが学び、活かさなくてはならないものがたくさんあるのだと思います。かつての戦争の時代の中で、数え切れない人たちが傷つき、痛み、また犠牲となって死んでいきました。その取り返しのつかない悲しみから、後世のわたしたちがきちんと受け止め、学び、生かしていかなければならないものがあるはずです。人の弱さ、痛み、悲しみの現実の中から、何を受け取り、何を改め、何を変えていかなくてはならないかと言う、多くの問いかけがあるはずです。
  • 聖書が描く平和は、そういう弱さによって支えられている平和なのだと思います。